昭和39年12月24日 夜の御理解
夕方、奉仕させて頂く前に洗顔をさせて頂いて、丁度幹三郎がおりましたから、「あのちょっと下からタオルを持って来てくれ」私申しましたら、なにかこうテレビを見ておりましたけれども、走ってその下にとりに降りたようでした。そしてあのチョット違ったタオルの新しいのを持って来ておりますもん。「あらこれはお父さんのタオルじゃないじゃないの。お母さんがこれを渡しなさったね」と言ったら「いいえ」というわけです。自分で持って来とるわけなんです。
「お母さんがこれをもっていけといいなさったけれども、これを持って来た」というようなこというのですね。それを聞きながら「ははぁこの人はおかげを頂いておるな」と思うのです。あれが、栄四朗ならどうでしょう。「うんお母さんがあげなさったよ」というに違いないですね。中々気の効いたのと、気の効かんとですけれども、やはり金光様のご信心はその辺の所をおかげを頂いて行かなければいけんですね。
家内がすぐ、後からまた私のタオルを持ってきよるますもん。だから、あれはもし、あの「お母さんがもってきちいいなさった」ちうてしらごといったらすぐばれることですね。もうばれるとかばれないとか、善意とか悪意とかというものではないです。そのくらいのことは。けれどもです、けれども金光様のご信心はどこまでも、実意がね素朴にでもいいからでてこなければ、神様に通わないです。
私あの昼午前中に家内と、それから豊美と勝彦4人で、昨日のお礼にださせて頂きました。丁度親先生夫婦とも福岡へ出られた後でございました。待って頂いておったらしいのですけれども、チョットこちら遅くなりましたもんですから、とうとうご挨拶が出来なかったのです。もういうならば、私の思いを込めてからお礼に出らせて頂いた。まあなにかのうえにですね。けれども、それでもやっぱり通じない。
帰ってから私、すぐに楽室にさがりましてから、明日の朝、またお礼にだけ出させて頂こうと想うたら、あの、コタツの上にカチッとおいさみを頂きます。ね。いわゆるお道の信心はね、これで済んだと思いませんというところがお道の信心ですよ。ね。例えばなら、家族中でお礼にでさせて頂いた。また、何かの上にも心を使うてから、お礼させて頂いた。行ったばってんお留守じゃったから。
神様に通うてもやっぱり親先生には通うておらんわけですから、これは明日の朝あのちょっと、この次おうたときではいけん。ちょっとおれいにださせて頂こうと思うただけですね、いわゆる神様がそのことを喜んで下さる印ぢゃないでしょうかね、おいさみを頂きました。いわゆる教祖の神様のご信心は「これで済んだとは思いません」と。どこにお粗末ご無礼があるやら分からん。
そのこれで済んだとは思わんという信心が成されておってもまだどこに、そのお粗末ご無礼があるやら分からんのですから、そこ辺をいい加減にしておったんではおかげになりません。おかげになりませんというか、金光様のご信心ぶりではないですね。ところがその、椛目はここは非常にやはりルーズなところがあるのですね。だからもう、長所もあります。そういう欠点に椛目は一つ取り組まなければいけん。
まあいうなら、秋永先生、久保山先生と。どちらも椛目になしなからなければならない、存在であると。どっちも素晴らしい調子を持っておられる。私の手にも足にもなって下さる方達。けれども、その秋永先生にはやはり、その今私が申します所の、欠陥があり久保山先生にもやっぱそれがあるということ。先ほどです(北林錬?)さんという、ちょいちょい手紙をやんなさるけれども、私は読みきらんです。
けれども二階に上がりましたら持ってまいりましたから、私が子供達に読ませたけれども読みきりませんもん。私がお届けだけしておいでと開封して、お届けを久保山先生してもらいました。と此処へおりてからですもん、あの成程お届けをしてございました。「大体、どげな事を大体書いてあったの」といいましたら、「もうわからしません」ちこういいなさいますもん。そりゃ分からんのがほんなこと。
読みきらんですもん私。それで私もう一遍あけてみろうと思うたところが空なんですこれ。ありゃ久保山先生中がはいっとらんよち言うたら、ぜんぜん読んじゃないとですたい二階にあった、べっに悪意も何でもないでしょうが、それがわからんとですけん。だからそげんいよんなさったっちゃよかですけども、例えば幹三郎じゃないですけれども、もう、私は分かりませんけん読みもしませんでしたと。
こう言えば実意ではないかと私は思う。秋永先生なんか場合なんかその辺が実にいわゆる、栄四郎じゃないですけども気が利いておりますからもう、その、なんちいうですかね、兎角その、あんまりはようのみこみすぎて実意を欠く場合がありますですね。私はあの、今日、豊美が今夜善導寺に出ております。本で私が今日いろいろお供えを持っていったなかに、一点だけ、お供えをしていないものがあったのです。
それは私があの以前霊神様にですね、長崎カステラをお供えさせて頂いたのです。二箱。ね。私それはむつやの(?)新婚旅行から帰って来たばっかりでそのお土産にもってみえたですたい。だから私はそのまま持っていったですたい。ところがね、箱は立派にしてですたい、中が片一方がはいってなかったち。親先生がお供えをしなさってから頂こうかちいうてから開けなさったら片一方が空げな。(笑)
それから私はむつやにすぐに電話かけましたですたい。電話じゃなかった、もうしましたたい。そしたらそれがあなたもう、あちらが頂いたことを知らなかった、頂いとったげな、むつやのほうで、そしてそれが変わって包装紙が同じで、それを私はもっていっとるわけです。「もう親先生どうもすいません。これは霊神様に空でもお供えさせて頂いて」というてですね。
もうとにかくあの、椛目にお供えさせて頂きますからと私は、もうよかがのちいよんなさいましたけれども、私の気持ちがすまん。だから、今度お供え頂いたならですね、私があれだけひきなおしておいて持っていこうとおもうて昨日頂いておったけれども、お供えせんなりに神饌室においとったのです。それだけ1箱。ですから今日私がいろいろお供えを持っていった中にそれが入れてあったけれども。
だまって忘れておったのです、そのくらい。ね。ところが私が豊美が善導寺に行くとういからです、あの中の長崎カステラだけは神様にあの、お供えしとらんやったじゃんのち私が言いましたら、それがあの、「もろうてこなければいかんのですか」ちこういう(笑)。お供えしとらやったっじゃけ、まいっちょもろてこなん。「そげんもろうてこなならんちいいよるとじゃなかたい、ああそうですか?」と。
と言う様な所が、椛目にあります。椛目に秋永先生なんかそういうところがありますですね。私が5言うたら、もう10の事を悟です。そして、その悟った事十全部が私のこととしてから、人に伝えるような所があるですね。これは実意を欠きます。ね。いわゆる、チンちいえばカンチいうようなタイプ。だから椛目にはどうしても秋永先生の、欠点、久保山先生の欠点といったようなものがです、あるんです。
それではこれでは是で済んだとは思いませんと言う様な、実意なことになってこないでしょうが。私の子供でいうなら、栄四朗と幹三郎のようなものです。そこんところをです私は行き届かせて頂いてからです、もうお礼は済んだのだから、お礼は形でいったのだから、それで済んだとは思わずにです、ね、ただ口の言葉だけで明日の朝もう一遍行ってお礼を申させていただこうと言う事を、神様が喜んで下さるのですから。そこんところを私はあの心がけ心していかなくてはいけんのじゃないかとこう思うですね。
実意丁寧。私はそう言う様な事に、所が人間の性格ですからね、ですけれどもそういう所に欠けておるそういう実意が欠けておるという事をいつも心に懸けておってです、ね、そこを失敗せんように、これで済んだとは思わんという謙虚さというか実意さというかよく利き終わってからと言った様なです、その実意さが頂くほうの側にまたはそれを行じさせて頂く上においてでもです必要ではないかと今日はそんなことを感じました。
おかげを頂かねばなりません。